平成19年7月12日(木)午後11時50分
タイ航空677便は午後9時16分、バンコク、スワンナプーム新国際空港に着いた。飛行機から降りると、すぐに私の名前を持ったスタッフが待っていた。空港から1時間半ほどで、今回宿泊するホテル「ナラ・コート・ホテル」に着く。幹線道路上のガソリンスタンドとセブンイレブンしかない寂しいところだ。プロデューサーに電話をすると、夜11時なのにまだ撮影のことでごたごたしているというので明日朝、会うことにした。
今回タイを訪れたのは、河瀬直美監督の映画のお手伝いをするためだ。7月に、助監督の近藤さんから電話があり、河瀬監督の次の映画がタイマッサージをテーマにするので、タイマッサージについてお話を伺いたいという申し出があった。河瀬直美監督は、「殯の森」という映画で今年のカンヌ映画祭で最高の賞パルムドールに続くグランプリを受賞した映画監督だ。助監督の近藤さんとは1時間半ほどお話をし、また何か知りたいことがあったら連絡をくださいといって別れた。
そして数日後、今度は河瀬監督から直接電話があり、今、奈良の世界遺産の元興寺で撮影の準備をしているので、奈良に来てほしいとのことであった。そして急遽、治療院の患者さんやスクールの予定を調整して奈良に向かった。
お寺に着くと監督やスタッフが撮影の準備をしていて、タイマッサージの体験がない監督に早速施術を行った。ゆっくりと施術をし、最後に背中・腰・首の調整を行うが、頸椎以外はほとんど動かなかった。しかし、学生時代バスケットをしていた監督の関節の可動域は広く、健康だった。次に主演の長谷川京子さんにマッサージを行った。長谷川さんは、施術をはじめるとすぐに呼吸が変わり、寝息に近い呼吸になっていった。彼女にとって1時間半はあっという間に過ぎたようだった。
次の日の朝、スタッフ全員でタイの伝統的仙人体操ルースィーダットンを行った。簡単な動作をみんなで呼吸を合わせ、気持ち良さを味わった。その後、撮影の準備に入る。梅雨の時期なので、雨が良く降っていたが、境内の石仏が雨に濡れて石仏の間に生えているキキョウと共に一層美しさが引き出された。
その日の夜に、ある事件が起こった。元興寺の住職から、「お寺の禅堂で撮影をする時は、マッサージするようなシーンは撮ってほしくない」と助監督に連絡が入ったようだ。ここまで来て撮影ができないのは、心苦しいと感じたので、私も監督や助監督に同行して、住職にタイマッサージについての誤解をとってもらうように説明をした。
住職曰く「ここのお寺は世界遺産に指定されていて、しかも映画ということは、映像で永遠に残るので、その部分を気を付けて撮影をしてほしい」との結論で、話し合いが終わった。
撮影の前日には、タイマッサージ以外に何かお手伝いができるかを考え、朝の時間を少しもらい、タイの歴史、ブッダの生涯と仏教を解説し、慈悲喜捨の瞑想法を行った。何人かの人は、嫌いな人の幸せを願うという瞑想法にとても抵抗を感じたようだった。
映画の撮影は静かに進んでいった。ここでのシーンは、タイでの出来事の白日夢のような部分で、まだ僧侶になっていない一人の男性が主人公とタイマッサージを行うシーンである。撮影は、朝から夜の9時半まで続き、57カットを撮って終わった。この日がクランクインだった。
奈良での撮影も何とか無事に終わり、私の役目はそれまでだと思っていた。その日の夕飯時に、スタッフから、またタイで会いましょうと冗談半分で言われた。しかし、その後、どういう理由かわからないがプロデューサーや監督までもがタイにも一緒に来てほしいとの希望でここまで来てしまったのだ。
7月13日(金)午後10時50分 サムットソンクラーン
朝ホテルの近くを散歩していると、偶然プロデューサーに出会った。プロデューサーから「昨日の夜、撮影の途中でタイ側のプロデューサーが突然照明の電気を全部切ってしまったのだ」という話を聞いた。一日の撮影時間があまりにも長すぎて、タイのスタッフサイドがきれたらしい。そのため今、タイのプロデューサーと話し合いをしていて、集合は昼になるという。そして、ホテルのロビーで12時半に日本側スタッフが集まり、これからどうするかを全員で話し合った。
結局、一日の撮影時間が16時間から17時間までになり、そのことにタイのプロデューサーがきれて、タイ側スタッフの事を考えて、しかたなく電源を切ったらしい。今回は日本側スタッフ同士の意思の疎通も非常に少なく、何が何時に始まって、いつ終わるのかもわからないために、スタッフの心は疑問と不安だらけだったようだ。また、タイ側と日本側の自己紹介もないままに撮影に入ったため、細かいことを連絡する相手も知らないままの撮影スタートだったのだ。
そのため、まず日本側とタイ側のスタッフ全員の自己紹介を行うことになった。自己紹介は、午後3時半から始まり、全員が話し終えたのは、午後5時半だった。私は、タイでは指導することが少ないので、映画のメーキングを撮影することになった。とにかく私もなぜ自分がここにいるのかを未だによく理解していない。そして、その日の夜のお寺での読経シーン撮影が終わったのは、9時半過ぎだった。
7月14日(土)午前0時
朝8時半にロビーに行くと、プロデューサーがサンドイッチを用意してくれていて、朝食だという。ツナサンドだったのでロビーで食べて、現場に出発する。現場に着くとそこでも朝食が用意されていた。しかもカオパットとクイッテオだ。ツナサンドを食べたばかりだが、タイ料理がとてもおいしそうに見えて、また食べてしまった。なかなかやせられないなー。朝食を食べていると、同席していたフランス人のカメラマン、キャロリーヌとアシスタントのレオの雲行きが怪しい。カメラマンのキャロリーヌは、突然食べていたヌードルの箸を放り出し、そのままどこかに行ってしまった。通訳に聞くと、アシスタントが昨日夜、飲みに行ったのが原因らしい。撮影現場に行くと、キャロリーヌが頭を抱えて泣いている。多分私しか彼女の話を聞けないだろうと思い、彼女をやさしくマッサージしながら、話を聞いた。彼女の言い分は、「アシスタントのレオは仕事中でも100%カメラワークの補助ができていないのに、夜遅くまで飲みに行ってその仕事に対する態度がプロとして許せない」と言っていた。彼女はレオを6歳くらいから知っていて、ここ10年くらいアシスタントとして手伝ってもらいながらいろいろと教えているらしい。多分子供を一人前に育てる母親の気持ちなのだろう。肩から背中、そして首を軽くマッサージし、5回ほど深呼吸させて背中を調整したらとても良く動いた。その調整があまりにもいい音だったので、そのことで笑いながら話しかけると彼女も笑い返してきた。これで大丈夫だと思い、続きは後でしましょうと言って別れた。
午後は、彩子役の京子ちゃんとフランス人のグレッグがマッサージを習うシーンだ。私はすでに教えることがなかったので、少し離れた所にいた。昼休みに入る前、もう一度キャロリーヌをマッサージした。いつも右肩で大きなカメラを担ぐので、肩が凝っているかと思ったら、背中の方が凝っていた。今回はタイマッサージではなくて、通常行っている治療院での整体マッサージをしてあげた。すごく効くマッサージだと言っていた。
昼食を食べてからは、ボートで移動するシーンで、ここでも私の出番は特にない。しかし、メーキングビデオは撮り続けることにした。出番の前に京子ちゃんをマッサージした。午後の時間が十分あったので、マッサージルームで一人でルースィーダットンを行った。やはりこの体操はとても良い。気持ちが良いし、自分で自分の体をほぐせる素晴らしい健康法だ。その後しばらく横になってリラックスした。下の部屋に降りてからも、かなり長い時間待った。本当に私がここに来た意味があったのか考えたが今さらどうしようもない。読みたい本でも持ってくれば良かったのにと思った。本当に私は、何かを待つのが、そして待たされるのが苦手なのだ。
ボートのシーンが終わり、近寄ると監督が必死で走って行った。後で聞くと監督のご主人と子供が日本から着いたらしい。早く子供に会いたくて走っていったのだ。ボートが帰ってくると、ゲイ役のグレッグとキャロリーヌが私に話しかけてきた。ボートのシーンの前に、グレッグがヨガの逆立ちをするシーンを5回ほどとり、その後グレッグは、頭に血が回り、くらくらして泣く演技ができなかったようだ。でも監督がそこをわかってくれないと嘆いていた。そのことを監督に話すと、「それもわかるけど俳優なのでしっかりしてほしい」と言っていた。本当に撮影はいろいろと問題が起こるのだ。それを一つ一つクリアーして行ってやっと1本の映画になることを痛感した。
夕食後は、街に出て、彩子とグレッグ、マッサージの先生役のアマリとタクシーの運転手役のマービンが町中を全力で走るシーンだ。5回ほど取り直し、俳優たちは汗だくへとへとのように見えた。やっと取り終えて終わったのは、10時半だった。
明日の集合が11時なので今夜は少しのんびりできるかなー。
7月15日(日)午後10時20分、0時半
今日は、8時頃目が覚めて、色々と出かける準備をしていたら、あっという間に10時半になった。少しの間瞑想をしてから出かける。現場に着いてから、朝食兼昼食をとり、今日はおかずに鳥の唐揚げが出てとてもおいしかった。撮影はアマリのマッサージ学校のシーンからはじまり、川辺でのシーンと移っていった。その後に、街に出てピーピン(マービンの娘で売春婦役)とマービンが出会うシーンと、彩子とグレッグが靴を買って象に出会うシーンを撮影し、また夜の川辺のシーンにもどった。
撮影を待っている間、私は街の漢方薬局屋で唐辛子入りのオイルを見つけて買った。とても効く良さそうなオイルだ。そして、今日はじめてスタッフの確認証を手渡された。名称は「Behind the scene」だ。私の得意なビデオカメラでのメーキング撮影を任された。やっと私のやる仕事ができた。そして、明日は休みなので、何をしようかと考えている。みんなはバンコクまで出かけるが、近くの水上マーケッにトは誰も行きたがらないので、私は、ホテルで休むことにした。
今ちょうど、カメラ担当のキャロリーヌをマッサージしてきたところだ。治療とトークセンとタイマッサージを組み合わせた。ゆっくり1時間くらいマッサージをしただろうか。ゆっくりやったせいか、自分の疲れはなかった。キャロリーヌから、明日は12時から街で撮影があると言われ、もし良ければ一緒に行こうと誘われた。ちょうど街に行きたかったので、一緒に町まで行くことにした。明日の午前中はゆっくりできそうだ。
7月16日(月)午後9時
今日は8時に目が覚めて、10時頃までゆっくりした。昨日誰も行かないと言っていた水上マーケットに監督と犬飼さんはすでに出発したようだ。私はキャロリーヌたちと町まで行き、そこでスタッフとは別れて、はじめてサムットソンクラーンの町を探索した。途中、鉄道が通っていて、あのよく見かける線路の際まで、市場が広がっている所があった。ここは列車がくるとあわてて線路上に広がった市場をかたづけるとこのようだ。
ここでは、おみやげになりそうなものをあまり売っていなかったので、水上マーケットに行こうと思い、警官に聞くと、タクシーはなくミニバスかソンテオしかないという。言われた方に歩いてみるが、ソンテオは見つからない。しょうがなくバイクタクシーに頼む。120バーツだった。
30分ほどで着いた。思ったよりも距離があった。まだ少し、店は開いていて、いくつかのおみやげを買い、クイッテオを食べた。帰りは、バイクタクシーがいるところで交渉し、車を持っている人に町まで送ってもらった。500バーツだった。
町を散策していると突然大雨が降ってきた。市場で少し座って時間を過ごし、トゥクトゥクで80バーツでホテルまで帰った。現地のタイマッサージを頼んで1時間受けてみた。キャロリーヌにマッサージをした人と同じ人だった。特に気持ち良くもなくうまくもなかった。1時間150バーツだった。その後、ゆっくりお風呂につかり。これから少しルースィーダットンをしてから寝る。明日は4時45分に出発だ。
7月17日(火)午後11時20分
今日は、4時に起きて、シャワーを浴びてから出発した。センターでは、朝食用意してあり、朝食後、托鉢のシーンから撮影ははじまった。タイのお坊さん役の村上淳さんがタム役で朝歩いていると、アマリとアマリの息子トイがお坊さんに食べ物を喜捨し、それを彩子が見ているシーンだった。いつもの通り、私は何もわからずにメーキングのシーンを撮った。
その後アマリの家で、アマリとマービンがトイが見あたらないと口げんかをし、それにグレッグと彩子も加わり、大げんかになるシーンで、4テイクぐらいしてやっと終わった。
アマリは、今回トイ役の子供を連れてきた普通のお母さんで、役者ではないのだが、急遽母親役に抜擢されたため、感情の表現が苦手のようだった。後から聞いたら撮影では、京子ちゃんもグレッグに顔を6発も殴られ「はじめて顔を殴られて経験だった」と言っていた。アマリのテイクを後に回し、お昼になった。
午後は、マービンがトイを探すシーンで実際に道ばたの家々に聞きながら探し回っていた。そして、問題の森の中のシーンである。
彩子がトイを探して森に入り、沼に落ちて歩いていくシーンで、京子ちゃんは、膝上まで沼につかりながら演技をしていた。大変だと思った。二回、三回と取り直しやっとOKが出た。そして彩子がトイを見つけ帰っていくシーンで今日は終わった。
終わって車にもどった途端、雨が降り出した。夕食をセンターでとり、メニューはチキンカレーだった。明日、オレンジページのルースィーダットン特集の撮影が東京であるので、家内の幸代に電話すると、原稿をホテルにFAXで送ったという。急いで見なければならなかったので、近藤さんに仕事があるので早くホテルに戻りたい旨を告げてやっと車の移動がはじまった。それでもそれから30分は待った。待つのが一番苦手な私が、この現場で良くやっていると自分でも思う。ひょっとして、今回ここに来た意味は、待つことに慣れるためかとも感じた。また、監督の人との接し方、特に目で人をも動かす能力も参考になったかもしれない。そのやり方がいつも適切だとは思わないが、学ぶべき所は色々とあると思う。これから今回ここに来た意味が自ずとわかってくるだろう。
ホテルに戻ってから京子ちゃんをマッサージして色々と話を聞いた。東京に戻ったら、治療院の近くにある禅料理の店に一緒に行きたいと言っていた。彼女もストレスが色々とたまっているが、なるべく出さないようにしているのだなーと思い、役者も大変だと痛感した。でも話した感じでは、素直でよい子で、話の理屈が通っている感じがした。性格は良いが彼女の背中は胸椎の8番くらいから腰椎の4番くらいまでがとても張っていた。
彼女のマネージャー、スタイリスト、メイクさんも監督の指示で撮影現場には入れず、かなりストレスがたまっているようだ。
12時になったので今日は寝よう。明日は8時集合だ。
7月18日(水)午後8時45分
今日は、7時に目が覚めて、7時20分に起きた。朝の準備をしているとすぐに時間が過ぎ、8時になった。ロビーに降りると同じ車のチームがすでに待っていた。センターに着き朝食を食べて、朝の撮影に入る。
今日はアマリとトイのシーンでトイが歌を歌うシーンと、マービンがギターを弾くシーンだった。1時に昼食を取り、彩子とグレッグがボートに乗るリテイクを撮るはずが、急に大雨になり、急遽、部屋から雨のシーンを撮ることになった。
1時間もすると、雨も上がった。ボートのシーンと彩子の歌のシーンが終わったら、グレッグが喉が痛く寒気がするという。首と喉をマッサージして、熱を下げるため、鍼で少商を瀉血した。その後、出演者一家で宣伝用スチル写真を撮った。
グレッグがだるそうだったので、一緒に早めに帰り、マッサージと薬をあげた。よく寝れると良いが、扁桃腺が腫れていて、あの熱だと明日はきついかも知れない。解熱剤とメラトニンと睡眠薬と抗生物質を飲んで寝てもらった。
夜9時に京子ちゃんのマネージャーの高橋さんから電話があり、誕生日のプレゼントをキャロリーヌにあげるので、ロビーに来て欲しいという。行くとみんなが待っていて、キャロリーヌは全員にキスのお礼をしていた。そして、彼女は前回のマッサージがとても良かったので、今日もできないかと言われたが、残念ながら仕事があるのでできないとことわった。そのかわり明日の朝、マッサージをすることにした。明日の夜便で帰るので、今日は支度をしてから寝よう。明日は7時に出発だ。
しかし、生まれて初めて、こんなに長い時間を待つという体験をした。1週間だから我慢できたが、仕事としては絶対にできないと感じた。京子ちゃんが言っていたようにこの現場は、段取りがあまりうまくいっていないようだ。どういう予定なのかが全く見えず、それでみんなもいらいらすることが多い。もう少し、予定がわかれば、スムースに事が運ぶのにと思った。
7月19日(木)午後6時半
朝、センターで食事をして、今日の撮影は、トイとマービンが剃髪をするシーンからはじまった。リハーサルの時に、トイの剃髪を別の男の子で練習した時、タム役の村上淳さんがカミソリで剃ったら、頭の何カ所から血がにじみ出てしまった。フィルムボード(映画の内容について問題があるかどうかを撮影中に管理する人)の人が、「子供の頭を剃る時は、危ないからタムが剃髪するシーンは最後だけにしておいたら良い」と言ったアドバイスを受けたが、撮影を続行してしまったため、このようなことになってしまった。
タムとマービンのシーンが終わり、そのまま、みんなで歌って踊りながらお寺まで歩いていくシーンの撮影になった。最後はお寺の回りをスタッフも含めて、全員で行進するシーンで終わった。私たちが映画に映っているかどうかはわからないが、タイの音楽と歌、そして音楽に合わせて踊るタイ人ののりを結構楽しめた。
今回は撮影中、日本人十数人とタイ人十数人の治療を行った。私は今までいつも自分の人生で先頭で走ってきたが、ここに来て下で働く人たちの気持ちを理解できた気がする。それを学ぶためにここまで来たのかも知れない。そういう意味では、ありがとう河瀬直美さんと言いたい。本当に撮影に誘ってくれて感謝しています。
夜、7時半にホテルを出発し、これから全員で帰国だ。
映画「七夜待」2008年11月1日公開
監督:河瀬直美 主演:長谷川京子
日本タイマッサージ協会会長 大槻一博実技指導
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